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2016/12/06
大山は、最下位を告げた時の厳しい表情からうって変わってニコニコしながら「関根がいつもここにいるのは、知っていたよ。以前松原係長と同行した際に、タクシーからお前がこの店に入る姿を見たんだ。今日も松原係長から『たぶんあの店にいるから、ちょっと様子見て来てくれ』って頼まれたのさ。松原係長も心配してたぞ」と話してくれた。
関根は、大山の言葉に心が温まった。素直に「皆さんにご心配かけてすみません」と頭を下げた。
大山は関根の真摯な表情を確かめると、「まだ間に合うから大丈夫だ」と言ってくれた。この言葉に関根は救われた気がした。暗闇で遠くにかすかな火を見つけたような気持ちだった。
「関根、トイレに行くふりをして、この喫茶店にいる他社の営業マンの表情を見てこいよ」と言った。関根は「えっ」と、聞き返したが、大山の言う通り、トイレに行きついでに、ぐるっと店内を回り、さりげなく他社の営業マンらしき人たちの表情を見てきた。
「大山さん、なんかみんな覇気のない顔ですね。俺もこんな暗い顔でした?」
「さっき入ってきた時のお前の顔も同じだよ。このまま行ったら、お前もあの表情がいつもの顔になっていくぞ。そうなりたいか?」
関根は、「いやー、嫌です」と答えた。
「そうか、そう思ってくれて、俺もホッとしたよ」と大山は言った。それから大山が過去見てきたヤマトビジネスマシン京都営業所を退職して去っていった先輩たちのことを話し出した。それぞれ色々な事情を抱えていたが、みんな結局、自分以外に原因を求めて、自ら沈んでいったのだった。
大山の話を聴きながら、関根はこの1年の自分を振り返った。そうすると、すべて自分が原因だったことが見えてきた。人は自分が可愛い。だから都合の悪いことは、自分以外に原因を求めてしまうのだ。営業所での大山の厳しい指摘と今の優しい眼差しに触れ、関根の心は磨かれていった。
このような関根の変化を見届けて、大山はこんな話を始めた。「関根、確かに先日の勉強会での太田の言動はひどかった。俺も奢っているとしか思えないよ。お前も太田のことは顔を見るのも嫌だろう?」
関根はあの場面を思い出し、胃がせり上がってくるような気持ちに襲われながら「はい、顔を見るのも嫌です。今一番嫌いな奴です」と答えた。「そりゃそうだな。もっともだ。でもよく考えみろよ。その一番嫌いな奴がきっかけで、関根の人生が狂ってくる。これ馬鹿らしいとは思わないか。一番大切な人のために、辛い思いをするのはいい。でも一番嫌いな奴だぞ。そいつのために辛い思いをして不幸になっていくってばかばかしくないか」。大山は、「ばかばかしくないか」を何度も繰り返しながら語った。
関根の心にこの言葉は響いた。「一番嫌いな奴のために辛い思いをするってばかばかしくないか」という大山のこの言葉が、脳の中で反すうされ、ぐるぐると回りながら脳神経細胞のシナプスに染み渡っていった。関根はしばらく無言で、この言葉を噛み締めた。
大山も黙って関根を見守り、関根からの言葉をじっと待ってくれていた。
10分位経っただろうか。関根が口を開いた。
「大山さん、本当にありがとうございました。大山さんのおかげで曇っていたぼくの視界は晴れました。今、心から、この営業の世界で、1位になってやろうと思うようになりました。私なりのやり方を貫いて、きっとトップセールスとみんなから言われるようになってみせます。そして太田からは『教えてください』と言わせてみせます」
この瞬間から今まで消耗しきっていた関根の心にエネルギーが充填され始めた。エネルギーが注入されると知恵と勇気が湧く。売れないプロセスからの脱却が始まった。
「仕事の借りは仕事で返すのだ。仕事の苦しみは、仕事で喜びに変えるのだ」と心から思えた。関根が蘇った瞬間だった。
そして、関根はこの日以来、自分を客観視する第3の視点を得た。自分と自分の周りを別の自分が上の方から客観的に眺め、自分の感情や考えから離れて、その場で起こっていることや自分の心の有り様を冷静に把握できるようになっていった。これをメタ認知能力と言う。関根は、大山との会話とその後の自分自身の内省の中で、今までの苦しかった日々で考えたことを客観的に捉えることで、もう一人の自分の視点を持つことができたのだ。
大山からの「他社の営業マンの表情を見てこいよ」から始まり、大山からの問いかけで自分の今までの言動を冷静に振り返ったからだった。
このメタ認知能力は、これからの関根のビジネス人生に多く貢献していくのだった。
関根は、この日営業冒険物語のスタートラインにやっと立ったのだった。
第3話完
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著作:渡邊茂一郎